熊楠の乗った船は大西洋を渡り、1892年(明治25)9月21日、イギリスのリバプール港に到着した。熊楠は9月26日、首都ロンドンに入り、横浜正金銀行ロンドン支店長の中井芳楠を訪ねた。

中井は和歌山県人で、南方家とは古くからの知り合いであった。この中井から、弟常楠の手紙を受け取り、敬愛していた父 弥兵衛の死去の知らせを受け、手紙を読んだ熊楠は打ちのめされる衝撃をうけ、途方にくれた。

ロンドンでは下宿代が安い下町に住み、植物標本の整理をしたり、カルキンス、アレンなどとしばしば植物標本や手紙の交換をする一方、大英博物館や南ケンジントン博物館、美術館を訪ねたりしていたが、そのうち、諸国を巡業していた曲芸師の美津田滝次郎に出会い、その宅で知人の片岡政行という東洋骨董商を紹介され知り合いになった。

そのころ1893年8月17日、アメリカ滞在の時より購読していた英国第一の週間科学雑誌『ネイチャー』に M.A.B なる人の「星宿構成に関する5条」の質問を見出し、下宿屋の老婆に借りた不備な辞書をたよりに、答文「極東の星座」を起稿することとなるのである。このとき、片岡政行は身なりこそみすぼらしいが、熊楠の博識の深さに気付き、大英博物館の考古学・民俗学部長で富豪のサ-・ウオラストン・フランクスに紹介した、また「極東の星座」の原稿の指導を受けたこともあって、博物館に出入りするようになった。

科学雑誌『ネイチャー』への答文、「極東の星座」は30日で完成し、それが『ネイチャー』に掲載されて、一躍有名になり識者に名を知られるようになった。以後、しばしば同誌に論文を発表した。更に随筆問答雑誌『ノーツ・アンド・クィアリーズ』にも寄稿を始め、多数の論考や答文を発表し、帰国した後も議論に参加し東洋学の権威者としてその名を馳せた。

こうして熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総長ディキンスや、フランクスの後任ダグラス、リ-ド部長などとも、親交を結ぶに至った。

大英博物館には毎日のように通って、収蔵されている古今東西の稀覯書物(容易には見られない書物)を読みふけり、主として考古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、宗教学などを勉強した。

また同時に、目を通した書物は厚いノートに筆写した。そのノート類は、52冊もあり、「ロンドン抜書(ぬきがき)」としていまも南方熊楠記念館や、南方熊楠顕彰館に保存されていて、英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・ラテンなどの小さい字で、ぎっしりと書きこまれている。

熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博識に感心した同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧められたが、自由の身である方がよいと断った。しかしながら、自分の勉強をしながら、同館の書籍目録の作成や仏像の名称の考証などを手伝った(『大英博物館日本書籍目録』、『大英博物館漢籍目録』の編纂に尽力した)。これには、幼少のころから古典や百科事典に親しみ、厖大な数の書籍を読み写したことによって、蓄えられた知識が役立ったことであろう。

ロンドンでのことで特筆したいのは、中国革命の父といわれる孫文(そんぶん)と知り合ったことである。1897年(明治30)3月、大英博物館のダグラスの部屋で初めて出会った2人は、たちまち意気投合し、毎日のように行き来して、時のたつのも忘れて語り合った。当時の熊楠の日記には、その様子が簡潔に記されているが、その親密さがにじみ出ている。しかし、2人の交遊はわずか4ヵ月で終り、孫文は7月の初めにロンドンを出発して東洋に向かった。

また、土宜法竜(後年高野山管長)との出会いは、土宜がアメリカ.シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表委員として講演し、その後横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家であった。 年上の土宜とは、最も心を許し宗教学を論じあい、その後も生涯書簡の交流がつづくが、土宜に贈られた法衣に袈裟(けさ)がけ姿で大英博物館に通ったりして人々を煙にまいたりもした。熊楠がロンドンにいる間に、日本の知名の士が何人も訪れてきたが、誰もがその博学に驚くとともに、日常生活でのあまりの無頓着さに強い印象をうけた。

熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価される一方で、東洋人だということでさげすまれるようなこともあって、幾度となく、乱暴的なふるまいをしてトラブルを起こし、1898年(明治31)12月、大英博物館で女性の高い話し声を注意して、ついに大英博物館を去らねばならぬことになった。

日本からの送金も途絶えがちで、翌年英国学士会員、バザ-博士の保証により、ナチュラルヒストリ-館(生物・地質・鉱物等の研究所)に通って自学したり、南ケンジントン美術館の日本書題号の翻訳の仕事を短期間したり、また、友人と浮世絵の販売などをしたりして、生活を支えた。ケンブリッジかオックスフォ-ド大学に日本学講座が設けられて、助教授になれるかとも期待していたが、その講座は開設されず、生活費にも困り、8年間過ごしたイギリスを、失意のうちに離れる決心をした。

1900年9月1日ロンドンの南ケンジントンの下宿を出発し、テムズ川の港で日本郵船の阿波丸に乗船、帰国の途についた。その日の日記には、「4時出帆、夜暫時甲板に出、歩す」と書かれている。


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