話はもどるが、1906年(明治39)の終りごろから、第一次西園寺(さいおんじ)内閣は神社合祀を全国に励行し、次の桂内閣もこれを引き継いだ。これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。
町村の集落ごとに祀(まつ)られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠(よ)りどころであり、神社合祀は史跡と古伝を滅亡させるもので、合祀された神社林はその後、伐採(ばっさい)され、自然景観の破壊や解明されていない貴重な生物が絶滅するなどの理由により熊楠は神社合祀を反対した。
各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。
なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。
1910年(明治43)8月、田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。このことから「家宅侵入罪」で連行され、18日間、未決のまま監獄に入れられた。結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている。
熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、1912年(明治45年)3月、県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫(よりみち)が努力したりして、大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がされることはなくなり、約10年後の1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息した。
しかしこの間、熊楠の運動の成果として伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるが、かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消した。
このため、熊楠はとくに田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である。
さきにあげた柳田國男は、日本民俗学の父といわれる学者であるが、1911年(明治44)2月、熊楠が『人類学会雑誌』に「山神オコゼを好む」を発表したことが契機となり、熊楠に民俗学上の質問の手紙を出し、熊楠がそれに詳しく答えたりして、盛んに文通が行われ、この2人の交流は初期の日本民俗学の発展に大きな役割をはたした。
1913年(大正2)の年末には、柳田は田辺まで熊楠を訪ねてきている。
翌年7月には、かねてより渡米を要請し、文通をしていた、アメリカ農務省殖産興業局主任スウィングルが、「学識のある熊楠をアメリカヘ招聘する」との記事が、『大阪毎日新聞』・『大阪朝日新聞』などに掲載され、さらには、福本日南の「出て来た歟(かや)」および「大変物の大学者」が『大阪毎日新聞』に連載されたことにより、熊楠の名声は国内に一度に広がった。
そのスイングル博士が1915年(大正4年)5月田辺に来遊し、再び渡米を直接伝えた、しかし一時はその要請に答える気持ちであったが、家族の事情もあるとしてことわった。
< 田辺定住 | 上京前後 > |