明治37年(1904)、那智を立ち田辺へ到着した熊楠は、田辺の仲間たちと連日のように飲み歩き、生活は荒れた。そんな状況を見かねた友人の喜多幅武三郎は、鬪雞神社の社司・田村宗造の四女・松枝との結婚を仲介した。
明治39年(1906)、喜多幅夫妻の媒酌により結婚式を挙げた。翌年(1907)、長男・熊弥が誕生する。わが子を見た熊楠は、その喜びを日記に「児を看て暁近くまで睡らず」と記している。その後の日記には、熊弥のことを記す記事が増えていく。
明治41年(1908)には、夫婦間に不和が生じ、一時松枝が実家に帰った時期もあったが、周囲が取りなして収まった。明治44年(1911)には、長女の文枝が誕生している。
大正14年(1925)、熊弥は高知高等学校受験のため四国に渡った際に、病気を起こして急遽帰宅、その後、和歌山や京都の病院などでの療養生活を続けることとなる。この頃は弟・常楠と不和になり、病院等の費用もかかって生活に困る状況であった。
娘・文枝は、松枝とともに晩年の熊楠を助けて「菌類図譜」などの研究活動を手伝った。