ロンドン時代に出会ったもう一人の重要な人物が、後の真言宗・高野山管長となる土宜法龍であった。
二人が出会ったのは、熊楠がフランクスを助けて大英博物館の仏像・仏具を整理していた頃のことである。土宜法龍はアメリカ・シカゴでの万国宗教会議に出席し、パリへ向かう途中ロンドンに立ち寄ったところだった。
意気投合した二人は、ロンドンにおいて連日、宗教上の談義を交わしている。法龍がパリへ渡った後に文通が始まり、生涯にわたって膨大な量の往復書簡が交わされることとなった。
文通初期のロンドン時代には、「小生の事の学」と称する独自の思想を法龍に伝えようとした。
帰国後の那智時代には、真言密教の曼荼羅や粘菌の生活史を用いて森羅万象を表した「南方マンダラ」を示した。
西洋の近代自然科学の因果律に対し、仏教思想の偶然性を取り入れたこれら土宜法龍宛ての書簡集は、熊楠の最も重要な学問論といわれている。