明治39年(1906)頃より、政府は神社合祀の政策を進めた。
行政上、村の合併が進められたのと合わせて、神社の統廃合が進められ、小集落ごとにあった小さな神社が合祀廃社されていった。和歌山県と三重県ではとくに合祀が進み、1906年末に5,819社あった神社が、1908年末には1,922社に激減した。
熊楠は庶民の生活に結びついた神社の合祀により、伝承されてきた民俗が絶え、また、神社林に保たれていた自然の生態系が破壊されることを恐れて、果敢に反対運動を起こした。その過程で、家宅侵入罪に問われ17日間収監されたこともある。
明治44年(1911)8月29日と31日、熊楠は神社合祀の非を訴えた長文の書簡を、親交のあった柳田国男を通じて植物学者松村任三(東京帝国大学教授)に送った。柳田はこの二通の書簡を『南方二書』と題して50部印刷、有識者に配布し、熊楠の活動を支援した。
熊楠は、合祀反対運動の中でエコロジーまたはエコロギーという言葉を使っている。今日的エコロジー思想の先駆者であったことは間違いない。