明治25年(1892)9月にロンドンに到着。その数日後、父の訃報が届く。ロンドン入り当初は、博物館や植物園を巡り、時折ハイドパークで採集をするなどしていた。

熊楠の本格的な研究活動は、翌年から始まる。『ネイチャー』に出た、星座についての質問に応えて論文を寄稿し、これが同年(1893)10月に「東洋の星座」として掲載された。学術雑誌に載った生涯初めての論文である。『ネイチャー』に発表した論文は、帰国するまでの間だけでも30編にのぼった。

この少し前、大英博物館の古物学部長であるフランクスと出会い、大英博物館に出入りをするようになった。正規の館員にはならなかったが、民俗学部長リードや東洋図書部長ダグラスを助けて「日本書籍目録」の編集に協力し、また図書館では自分の研究のための読書を続け、書き抜きをした成果が、全52冊の「ロンドン抜書」である。

しかし、なんどかトラブルを起こした熊楠は明治31年(1898)大英博物館を去り、明治33年(1900)、経済的にも行き詰まって、失意の帰国をすることとなる。

<strong>『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ』</strong><br> 本格的に学問を始めたロンドン時代、『ネイチャー』誌は科学雑誌としての地位を確立しつつあった。明治26年(1893)、デビュー論考「東洋の星座」が掲載され、熊楠は東洋の学者として出発した。<br> しかし、熊楠は東洋からの脱却を図り、世界全体へ視野を広げていく。明治32年(1899)から始めた文系総合学術誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌への投稿である。熊楠は生涯に約400本の英文論考を書いている。
ネイチャーとノーツ・アンド・クエリーズ

<strong>ロンドン抜書</strong><br> 1895年から1900年にかけて、大英博物館・南ケンジントン博物館・自然史博物館などでおこなった、熊楠の抜き書きノートの総称である。<br> 52冊のノートからなっており、英語をはじめ多言語の文献約500冊程度を抜き書きしている。<br> 過去の大旅行家による大量の記録や、性科学に関する文献も多く含まれているのが特徴である。熊楠の生涯にわたって、博識の源泉になった。
ロンドン抜書

孫文との交流