明治20年(1887)1月、サンフランシスコに到着。半年後、ミシガン州ランシングに移り、州立農学校へ入学したが、あまり学校へは行かず、植物採集に精を出していた。ある日、学内で飲酒事件を起こした熊楠は、自ら退学を決意して大学街アナーバーへ移った。

その後は大学には入学しなかったが、大学の博物館を見たり、日本人留学生と交際しながら、読書と採集に励んだ。『ネイチャー』の購読を始めたのもこの頃である。また、手書きの回覧新聞「珍事評論」を発行、文芸と評論を執筆している。明治23年(1890)には、シカゴの植物学者カルキンスとの文通を始め、特に地衣類やキノコ類について教えを受けた。

未知の植物が多かったフロリダへ行くことを決意した熊楠は、明治24年(1891)5月にジャクソンビルに着き、さかんに採集をした。ここでは、中国人・江聖聰の店に下宿していた。8月にはキー・ウェスト島に赴き、9月にはキューバのハバナに渡って、新種の地衣類を発見するなどした。

明治25 年(1892)1月にジャクソンビルへ戻る。熊楠はその頃から英国行きを決めていたようで、同年9月、ニューヨークを経て英国へ旅立った。

<strong>羽山兄弟</strong><br> 熊楠は和歌山中学校で、下級生の羽山繁太郎と出会う。二人は時を同じくして上京するが、繁太郎は肺結核を病み半年で帰郷、熊楠も予備門を退学し和歌山に戻り交友を深めた。弟の羽山蕃次郎ともこの頃に出会う。<br> 熊楠は渡米に際し記念の写真を送っている。羽山兄弟は熊楠の外国滞在中、肺を病んで若くして亡くなった。熊楠にとって羽山兄弟は生涯忘れえぬ親しい友であった。
羽山兄弟に送った写真

<strong>珍事評論</strong><br> アナーバーにいる日本人留学生に回覧するため、熊楠が手書きで発行した一部だけの個人新聞である。内容は「禁酒賛成派への弾劾」「珍事」「美少年」「仏教論」などに分類できる。B3サイズ程で、1号は8ページ、2号は14ページからなる。<br> アメリカ時代を代表する文章で、資料的価値が高い。第3号まで作成されたが、第3号は未発見である。
珍事評論

<strong>キューバでの採集</strong><br> シカゴの採集家カルキンスの勧めがきっかけで、熊楠はキューバでも採集活動を行った。主に地衣類を中心に採集を続けた。<br> キューバで採集した標本は、地衣類の権威ニランデルによって新種「ギアレクタ・クバーナ」と命名され、熊楠は生涯誇りとしていた。<br> 採集の対象は多様であり、美しい貝殻をマッチ箱に詰めたりもしている。本格的に変形菌の観察を始めたのもこの頃のようである。
キューバでの採集

<strong>アメリカ遍歴</strong><br> 横浜からサンフランシスコに渡り、ミシガン州とフロリダ州に滞在、キューバも訪れた。後、再びフロリダを経てニューヨークに向かい、そこからイギリスへと渡航した。
アメリカ遍歴

大英博物館と知への挑戦(イギリス時代)