商家の次男として生まれた南方熊楠は、紀州徳川家の城下町和歌山で育った。
幼い頃から学問に興味をもち、学校入学前から漢字を多く覚えたという。また、動植物に対しても好奇心が旺盛だった。
父・弥兵衛は、このようなわが子の素質を認めて、自分だけにはずいぶん学問を奨励してくれた、と熊楠は語っている。
明治6年(1873)、満6歳の熊楠は、新設の雄小学校に一期生として入学する。この頃から、書物をもつ家を訪ねては書き写し、繰り返し読んでいたという。
江戸時代の国語辞典『節用集』、絵入りの百科事典『訓蒙図彙』、本草(博物学)書の『大和本草』、地理書『諸国名所図会』などの書物を筆写した。大部の百科全集『和漢三才図会』を借りて、8歳の頃から筆写を始め、17歳まで「和漢三才図会抜書」の作成を続けている。また、中国の『本草綱目』もこの時期に書き写した。