商家の次男として生まれた南方熊楠は、紀州徳川家の城下町和歌山で育った。

幼い頃から学問に興味をもち、学校入学前から漢字を多く覚えたという。また、動植物に対しても好奇心が旺盛だった。
父・弥兵衛は、このようなわが子の素質を認めて、自分だけにはずいぶん学問を奨励してくれた、と熊楠は語っている。

明治6年(1873)、満6歳の熊楠は、新設の雄小学校に一期生として入学する。この頃から、書物をもつ家を訪ねては書き写し、繰り返し読んでいたという。
江戸時代の国語辞典『節用集』、絵入りの百科事典『訓蒙図彙』、本草(博物学)書の『大和本草』、地理書『諸国名所図会』などの書物を筆写した。大部の百科全集『和漢三才図会』を借りて、8歳の頃から筆写を始め、17歳まで「和漢三才図会抜書」の作成を続けている。また、中国の『本草綱目』もこの時期に書き写した。

<strong>大和本草と本草綱目</strong><br>『大和本草』は、宝永7年(1709)貝原益軒の編纂。江戸時代の日本を代表する本草書であった。本来、本草学は薬用植物等を扱う学問であるが、『大和本草』は博物学へと広がりを見せた。 <br>李時珍の『本草綱目』は、16世紀に成立した中国本草学の集大成である。日本での実地の生物観察をもとに独自の分類を試みたものが『大和本草』である。
大和本草と本草綱目

<strong>和漢三才図会 </strong><br>『和漢三才図会』は、大阪の医師・寺島良安により江戸時代の中期・正徳二年(1712)に編纂された日本の百科事典。<br>中国・明の『三才図会』にならい、各項目は和漢の事象を天、地、人の部(三才)に分けて並べて考証し、図入りで解説している。全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、約30年余りかけて編纂された。博物学的視点からも重要な書籍である。
和漢三才図会

テンギャンと博物学との出会い(和歌山中学校時代)