1916年(大正5)4月になって、借宅の向い側で現在の南方邸の土地家屋(中屋敷町36番地)を常楠の名義で購入した。
新しい宅地は1,320平方メートル(約400坪)もあり、2階建ての住宅の外に土蔵と長屋2軒があった、また、さらに前の借宅に熊楠が建てていた書斎もここに移し落ち着いた。

広い庭は、家族や石友をはじめとする人たちの応援のもとに、植物研究園とし、また、亀やカエルなどの飼育の場所とした、書斎は夜遅く迄の執筆活動や植物などの検鏡と整理等の場として、また、土蔵は多くの書籍や資料の収蔵庫として整えられていった時でもある。

神社合祀が大正の時代に入り強引な合併はされなくなり、社会的な運動は終わるかと見えたが、「田辺大浜台場公園売却の反対」「和歌山城の堀埋立て反対」「田辺扇ケ浜の臥竜松の伐採反対」「鬪鶏神社に隣接予定の三郡製糸会社の工場設置の反対」など、また県知事官舎にて知事、内務部長、警察部長等に植物保存の講演をして、自然環境保護を訴え、その行動は益々広範囲になった。

一方、今まで新聞や雑誌に発表してきた自然科学的な論文や「神社合祀問題」などの論考から、民俗学に関する論文が堰を切った怒濤のごとく発表された、1909(明治42)『南海時報』に最初の論考、「鶏の話」を発表してから、『東京人類学会雑誌』『山岳』『太陽』『考古学雑誌』『日本及び日本人』『此花』『郷土研究』『日刊不二』『風俗』『集古』『歴史と民俗』『土の鈴』『性の研究』『現在』『日本土俗資料』『同人』『民俗・学』『彗星』『旅と伝説』『岡山文化資料』『熊野太陽』『大日』『ドルメン』などに、また『植物学雑誌』には「訂正本邦粘菌類目録」など、当時を代表する総合雑誌や専門雑誌に数多くの論考を発表した。

1910(明治43)『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』のスウィングル博士による米国招聘の記事や、福本日南による熊楠の紹介の新聞連載などにより、学者や著名人の来訪が多くなり、また執筆活動が多忙を極めたこともあり、野外の植物の研究は自宅の庭で行うことが多くなった。

この時、かの有名な新属の粘菌「ミナカテルラ・ロンギフィラ」(イギリス菌学会会長、グリエルマ・リスタ-女史命名)を自宅柿の木から発見するのである。

1920年(大正9)8月には、親しく文通していた、高野山管長土宜法竜(どぎほうりゅう)の招きにより高野山に登り、小畔四郎も合流して、約2週間一乗院に宿泊し、菌類などの採集を行いまた、翌1921年の晩秋にも、楠本秀男(秋津に住む画家雅号竜仙)を伴って高野山に行き、約1ヵ月滞在して、菌類の採集や写生を行なった。

かねてより、南隣家の建物が二階建てに増築され、研究用の植物園を害することもあり、また県知事や友人達が協議することもあって、「南方植物研究所」の基本構想がなり、これをもとに、1922年(大正11)3月、36年ぶりに研究所設立の資金集めのため上京し、8月まで約5ヵ月間滞在した。

「南方植物研究所設立趣旨書」は田中長三郎が起草し、その発起人には、原敬、大隈重信、徳川頼倫、幸田露伴ら、各界の有名人約30名が名をつらねている。

募金目標は当時としてはかなり高額で、この基金で、採集した標本の整理や図録の刊行をおこない、今後の研究の充実を図ろうとしたのである。

熊楠は、上京中、時の内閣総理大臣高橋是清(これきよ)を初めとして、政界や学界の著名人を毎日のように訪ね、協力を依頼した。また、熊楠の上京を知って、多くの植物学者や民俗学者が次々と訪ねて来た。こうして募金には相当の協力を得たのであるが、予定の金額を集めるまでには至らなかった。

また、この上京中に、学生のころ訪ねた日光へ上松蓊らと出かけ、1週間ほど採集を行なっている。

帰郷し募金活動を続けるなかで、矢吹義夫(日本郵船大阪支店副長)に南方植物研究所の基金協力依頼をした際、熊楠の履歴を求められたのに対し、その返書の手紙が、「履歴書」と呼ばれているもので、それは熊楠が巻紙に細字で書いた、長さ7メートル70センチ余にも及ぶ長大なものである。

履歴の内容の豊富さ、学識の豊かさなどの点で、恐らく古今にその例がなく、少なくとも日本一長い「履歴書」であろう。この長文の手紙は3日で書れたようで、熊楠を知るうえにもきわめて重要な自筆資料である。また、柳田國男とも長文の書簡を交わし民俗学の最先端の議論を戦わせた。
同じ年の1925年(大正14)3月、長男熊弥が田辺中学を卒業し、高知高等学校(現高知大学)受験のため四国へ渡った。しかし、不幸にも高知で発病し、受験を果たさずに、迎えに行った佐竹友吉と金崎卯吉に付き添われ帰宅した。

熊弥は帰宅後、和歌山の病院に入院したが、その後、自宅で療養することになり、熊楠は表門を閉め、来訪者の面会をいっさい謝絶した。それが1928年(昭和3)5月に京都の病院へ入院させるまで、3年間も続いた。

東京での募金活動はある程度の成果を得たが、当初の実質的な発起人の一人、弟常楠からの2万円の寄付金の約束が果たされず、また、3万円余りの寄付金が集まった事により、今まで送金があった生活費が停止され、兄弟不和になると共に、病院の費用等もあり生活にも困る状況となった。

このようなこともあり、1926年(大正15)に、熊楠の著書が3冊刊行された。即ち、2月に『南方閑話』、5月に『南方随筆』、11月に『続南方随筆』が出版されたのである。それぞれは、各誌に発表した論文の集録であるが、熊楠の論調が一貫して読みとれるようになって、熊楠の博識が改めて世人に伝わり、驚かせることとなったのである。


< 神社合祀反対運動 昭和天皇へのご進講・ご進献 >