弟 常楠の経営する南方酒造販売店の支店が勝浦にあったので、1901年(明治34)10月末、そこへ行くことになり、和歌山から乗船した。

先ず、湯川村の宿に落ち着き、海藻や淡水藻を精力的に採集し、その後那智の大阪屋旅館に移った熊楠は、毎日毎日周辺を歩き回り、菌類、藻類などの採集に明け暮れた。そんな冬のある寒い日、那智「一の滝」の下で地衣類を採集していた時、背広を着た1人の青年が来たので、不審に思い問いかけ、色々話しをすることとなった。この人が生涯熊楠の粘菌研究に協力することになる小畔(こあぜ)四郎で、当時日本郵船に勤めていた。

小畔は、その後、航海の寄港地で標本を採集しては熊楠に送り、経済上の援助もした。また、親友である上松蓊(しげる)を紹介している。小畔、上松はともに、熊楠を生涯物心両面から研究の支援をしている。

初期の那智での調査中に、笑い話のようなこともあった。村の人々の間で、熊楠が採集しているのは薬草で、高い値で売れるらしいと、うわさになった。リユウビンタイというシダを採ってきて、宿の庭に植え、毎日観察していると、大勢の人々がぞろぞろそれを見に来たりした。中には、畑の作物を引き抜いて、代わりにそのシダを植えたものがいて、いつまでたっても買い手が来ないと、熊楠のところへ来て文句を言い、かえってたしなめられるような一幕もあったという。

4ヵ月余り勝浦・那智で採集、調査をした後、いったん歯の治療のため和歌山へ帰り、1902年(明治35)5月、再び那智へ帰る途中、田辺に立ち寄った。和歌山中学以来の親友で眼科医の喜多幅武三郎に再会するためであった。

喜多幅家に滞在中、田辺の山林家で亡父の知人多屋寿平次を訪ねた。多屋家の四男 勝四郎と親しくなり、同年6月1日、勝四郎の案内で田辺湾に浮かぶ「神島」(かしま)に初めて渡った。熊楠はその後、神島と深いかかわりをもつことになるが、昭和天皇を神島にお迎えしたのが、偶然にも27年後の同月同日であった。

6月の初めから3ヵ月ほど鉛山村(白浜)湯崎の湯治宿に滞在し、瀬戸村や鉛山村を歩き回り、さらに足を伸ばして富田の浜や椿などで採集した。

再び10月に田辺に戻って、泉治平(写真師)、湯川富三郎(旅館主)、川島草堂(そうどう)(画家)らと交遊した。また多屋家の次女たかにほのかな感情を抱いたのも、このころのことである。

12月の上旬、田辺から船に乗って串本に上陸し、大島・潮岬などで採集した後、在米当時親しくしていた古座川町、佐藤虎次郎(旧姓:茂木虎次郎)の婚家先を訪れ、また一枚岩を見て、那智に帰着した。

那智では、大阪屋に滞在して、第2回の採集・調査を再開した。雨の日も風の日も休むことなく、時には、帰りが遅くなり人々が心配して迎えに出たりしたほどで、那智山一帯、勝浦、湯川などで、採集活動に専念した。

この那智滞在中は、昆虫や植物を採集し、顕微鏡標品や彩色図譜を作り、また『ル-ソ-自懺文』、『ブルタ-ク伝』、『ヘンスロ-花原論』、『栄華物語』などおびただしい数の書物を読み、ディキンズとの共訳『方丈記』草稿の完成や、ディキンズ大著『日本古文篇』の校正などとともに、『ネイチャ-』、『ノーツ・アンド・クエリーズ』への寄稿を再び始め、多くの論文を発表した。

世界中の知識を驚異的に学んだ熊楠は熊野の大自然の中で「心界と物界」の交わりを追求し、土宜法竜とのあいだで宗教論をはじめ、自然界と生命についての議論に火花を散らした時期でもあった。 また、在英時代の終わりに構想がたてられた、英文論考の一つの到達点を示すと言われる「燕石考(えんせきこう)」が補筆、完成された。

足かけ3年、21ヵ月にわたる熊野植物調査を完了し、採集した菌類は、袋入1,065、箱入4、画添464、変形菌48、新セリース6、計2533、また、藻類は淡水541、鹹水(かんすい)311、計852と日記にある。

1904年(明治37年)10月6日、勝浦を出発し、途中採集をしながら、大雲取(おおくもとり)、小雲取(こぐもとり)を越え、川湯、中辺路(なかへち)を通って田辺へと歩いた。


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