熊楠の研究活動は、帰国後に本格化する。帰国直後の生物採集で特に力を入れていたのは藻類で、フィールドは主に水辺であった。森の生物が中心となるのは那智以降である。
那智に移った熊楠は、採集活動に加えて、生涯でも最も集中して執筆活動に没頭する。『ネイチャー』誌に「日本の発見」を投稿し、長く構想を温めてきた論文「燕石考」の執筆にとりかかり、『ノーツ・アンド・クエリーズ』などにも多数の投稿を行った。土宜法龍との文通から「南方マンダラ」を構想したのも、また後に粘菌の共同研究者となる小畔四郎と那智山中で出会ったのもこの時期である。この頃、粘菌が重要な研究対象となりはじめる。
熊楠は、個々の生物の分類学的な研究に加え、生育環境や分布領域などを含めた、植物相全体に注目していたことが、近年の研究でわかってきている。
明治37年(1904)に田辺に定住してからは、菌類の採集地も田辺町周辺が主となる。自宅では、顕微鏡を覗くときや菌類の写生以外は机は使わず、研究作業は手紙を書くのも含めてほとんど畳の上であったという。