ロンドン時代、熊楠の生涯の中で、とりわけ大切な、二つの出会いがあった。一つは中国の革命家・孫文との出会いである。

明治30年(1897)3月、大英博物館東洋学部長ダグラスの紹介で、二人は出会った。孫文はロンドンに亡命中だった。「西洋の学問」に負けない「東洋の学問」の確立を目指した熊楠。西洋の先進文明に学んで、中国の近代化を図ろうとする孫文。この時、同年代の二人は、互いの祖国の将来や夢を熱く語りあったことであろう。

孫文は、「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」という特別な友への惜別の辞を熊楠の日記とサイン帳に記し、明治30年(1897)6月、イギリスを去った。

明治33年(1900)10月に帰国した熊楠は、横浜に滞在している孫文のことを知り、手紙を送った。孫文からはすぐに返信があり、翌年(1901)2月には和歌山で再会した。孫文は、熊楠のために、自分の庇護者である犬養毅宛ての紹介状を書いている。二人が会ったのはこれが最後となったが、その後も通信は続き、孫文はハワイで採集した地衣の標本を熊楠に送っている。孫文が辛亥革命を成功させたのは、その10年後のことである。

<strong>孫文から贈られた書物</strong><br> 『原君原臣』と『紅十字会救傷第一法』。<br> 『原君原臣』は、黄宗羲著『明夷待訪録』の抜粋で、革命宣伝パンフレットの一つ。表紙に孫文の署名がある。<br> 『紅十字会救傷第一法』は、医師であった孫文の訳書である。<br> *『紅(こう)十(じゅう)字(じ)会(かい)救(きゅう)傷(しょう)第(だい)一(いち)法(ほう)』
孫文から贈られた書物

<strong>熊楠宛 孫文書簡</strong><br> 孫文からの書簡は、八通が知られている。<br> この写真は、そのうちの最後の孫文からの手紙である。
熊楠宛 孫文書簡

<strong>孫文のサイン</strong><br> 明治30年(1897)6月27日、イギリスを去る孫文が残したサイン。孫文は、熊楠の日記帳の一面に「海外逢知音」と記した。<br> 「知音」とは、琴の名手伯牙が、友人鍾子期の死に“自分の琴の音を理解する者はもはやいない”と嘆き、琴の弦を切って二度と弾かなかった、という中国の故事に由来し、「真価を理解してくれる友人」を意味する。
孫文のサイン

土宜法龍と南方熊楠