明治16年(1883)、熊楠は上京して、東京神田の共立学校(現開成高校)に学ぶ。ここでは後に首相となった高橋是清に英語を学んだ。

翌年(1884)、東京大学予備門(現東京大学教養学部)に入学。同級生には、夏目漱石や正岡子規など、のちに明治という時代を創ることになる俊才たちがいた。

入学をしたものの学校へはあまり通わず、上野の図書館に通い、和漢洋の書籍を次々と読破、筆写を続ける。「南方熊楠叢書」「課餘随筆」など、一連の熊楠独特の抜き書き帳を作っていった。

この予備門時代には、西ヶ原や大森で土器などを採集、鎌倉や江ノ島では魚介類を採集し、日光までも足を伸ばしている。

しかし学科の成績はよくなく、苦手の「代数」の試験で落第し挫折を味わった熊楠は、明治19年(1886)2月、和歌山へ帰る。その年12月には、父の許しを得て、横浜から船に乗りアメリカへ向けて出港した。19歳であった。

<strong>課餘随筆</strong><br> 予備門に入学した明治17年(1884)に書き始められ、「他日の用」のために余暇を利用して抜書を始めた、と述べている。見たもの聞いたものを書きとめ、後に役立てるための研究ノートであった。<br> アメリカ~ロンドン時代まで、長い年月をかけて続けられた。洋書からの書写も含まれているが、そのほとんどが和漢書からの抜書である。現在、11冊までの存在が確認されている。
課餘随筆

<strong>東京大学予備門での成績</strong><br> 予備門1年目の二学期の試験では、43人中36番目でかろうじて合格。三学期の試験は眼病を理由に欠席している。<br> この年の12月の試験で、とうとう不合格となってしまう。代数の点が29.4で、1科目でも40点以下の場合は落第という予備門の厳しい規則にひっかかったためであった。代数に関しては、当時のノートに「absurd(馬鹿げている)」と落書きしている。
東京大学予備門での成績

<strong>予備門時代の採集</strong><br> 予備門時代には、いろいろなものを採集している。<br> 西ヶ原の山林学校やモースが発掘した大森貝塚では、土器片や骨片を収集。江ノ島に旅行して、さまざまな海洋生物も集めた。日光へも旅行して動植物や鉱物などを採集している。<br> 旅行中、熊楠はその日に見た植物名や植物に生息する昆虫も丹念に描いている。生態系に対する関心の兆しを思わせる。
予備門時代の採集