明治12年(1879)、新設された和歌山中学校(現桐蔭高校)に入学する。熊楠の学歴は、明治時代の新しい教育制度の整備と歩調を合わせていた。
当時「テンギャン(天狗さん)」というあだ名が付いた。採集に夢中になって、何日も学校に来ないので、山へ入って天狗様に連れていかれたとうわさされたからだという説もある。熊楠自身は、自分の鼻が高かったからだと書いている。
和歌山中学では、紀州藩の学者らが教師となっていた。そのなかでも、鳥山啓先生との出会いが、熊楠に大きな影響を与えた。鳥山は日本の古典と西洋の博物学を学んだ開明的な知識人であり、中学校の教科書多数を執筆するなど、西洋の学問普及啓蒙に尽力した人物である。「軍艦」マーチの作詞者としても知られている。熊楠は、自分が先生と呼ぶのは鳥山先生ひとりと語っている。
読書や野外での採集に夢中となっていた熊楠は、学校の成績はあまり良くなかったようである。