皆さん、こんにちは。南方熊楠記念館の館長です。先日、気分転換にふらっと和歌山県と奈良県の県境となっている果無山脈に行ってきました。この果無山脈に安堵山(1184m)が鎮座しています。
晴れた日には安堵山の登山口付近から、護摩壇山系(北向き)や那智山系、大塔山系(南向き)の山々が連なった絶景を見ることができます。この山並みを見るのがたいへん好きで毎年何回か訪れています。
南北朝時代、果無山脈は護良親王(大塔宮)が敵から逃れるため使ったルートとされ、ここまでくれば敵の追撃の恐れがないだろうと安堵したという言い伝えが山の名前の由来となっています。
当時は鬱蒼とした人を寄せ付けない原始の森だったと考えます。現在もその名残としてブナやミズナラなどの大木がところどころに残ります。
現在は中辺路町から龍神村をつなぐ広域基幹林道が走り、稜線近くまで車で簡単に登ることができます。
この地は熊楠とも関係があり、明治43年(1910年)11月から12月かけて、この安堵山や中辺路町兵生(ひょうぜ)、坂泰官林、龍神村丹生川へ47日間の植物採集行を行っています。
5月23日に当館の学術スタッフがアップしたブログ「食うとはなはだうまかった」でも紹介していますが、熊楠が植物採集のため山籠もりの中、アナグマを捕まえ料理し食べた場所でもあります。
また、珍しいクマノチョジゴケを求め安堵山に登ったが発見できず、四十日余を空しく過ごしていたところ、案内役の山人の勧めで山の神に祈願、「もしこれを得ばオコゼを献ぜん」と念じたところ、数日後、安堵山近くの兵生千丈谷でこのクマノチョウジゴケを発見できたと言われています。
当時、この滅多に人が踏み入れない辺境の地まで、山籠もりするためたくさんの物資を携え、道なき道を歩き辿り着くことは相当な困難が伴い、そんなたいへんな思いまでして、珍しい植物を追い求める熊楠のバイタリティーは並々ならぬものだったことが想像できます。
十数年までは背丈ほどのスズタケが生い茂り林床には入ることはできませんでしたが、スズタケが一斉開花し枯れ、追い打ちをかけるよう鹿の食害により山全体が乾燥化してきています。温暖化もあいまって樹齢何百年というブナの大木が衰弱し枯れてきている様をみると残念な気がします。もし、熊楠が現世に生き、この様を見たら、どのような発言しどのような行動するか気になるところです。
安堵山 |
安堵山 山頂 |