1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、川島草堂らと交わるうち、この地が「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」ということで、気に入って、ついにここに落ち着くことになった。
中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、気ままな生活を始めた。
多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、奇芸をして騒ぐことが多かった。
1906年(明治39)7月27日、40歳の時、喜多幅武三郎の媒酌により、鬪鶏神社の宮司田村宗造の四女松枝と結婚した。松枝は28歳であった。
田村宗造はもと紀州藩士であった漢学者で、中国の故事を引いて諭(さと)し、松枝を育て、また松枝は裁縫、生け花などを教え、貧乏なる父に孝行し嫁すひまもなかったいう。
翌年7月、長男熊弥(くまや)が生まれた。我が子を初めて見た熊楠は、日記に「児を看て暁(あかつき)近くまで睡(ねむ)らず」と書き、父親となった喜びの気持ちを表わしている。
那智から田辺に移り住むと、和歌山、白浜、熊野で採集した粘菌を始め標品の整理や、また田辺周辺における採集活動を再開した。
田辺周辺では、西側の、会津川東畔、上野山、西神社、東王子神社、高山寺、糸田猿神祠、稲成神社、動鳴気、竜神山、天王池、秋津川、下芳養、西ノ谷。東側では公園、扇浜、鬪鶏神社及びくらがり山(後丘)、花畑、横手八幡、磯間猿神祠、六本鳥居、文里、菖蒲谷を日常的な採集場所とし、少し遠くは神島、跡ノ浦、朝来まで足をのばし、泊まりがけでは、1906年(明治39年)1月に新庄村鳥ノ巣へ5日間、同年11月から12月に日高郡川又村へ6日間、1908年(明治41年)6月に栗栖川水上へ3日間、同年11月から12月に中辺路・川湯・瀞峡・玉置山・萩・本宮・湯の峯 へ27日間、1910年(明治43年)11月から12月に、中辺路町兵生(ひょうぜ)・安堵山・坂泰官林・龍神村丹生川へ47日間の植物採集行を行った。
これらの短期、また長期の植物採集行のなかで、川又村の真妻神社で「真紅の粘菌」や、湯の峯 での「ユノミネシダ」、兵生千丈谷での「熊野丁子蘚(くまのちょうじごけ)」の発見は非常な喜びとして日記の中にも記されている。
採集行の帰り、小生暑気のとき故、丸裸で採集用具を持ち、供の者襦袢(じゅばん)裸でブリキ缶2個を天秤棒で担い、大声をあげながら、共に山をかけ下りたので、熊野川(田辺市伏菟野(ふどの)の小字)で田植をしていた女性たちが、天狗でも降ってきたのかと驚き、泣き叫んで逃げたということである。また、 奈良県の玉置山よりその下山途中で道に迷い山中に野宿したとか、兵生の製材山小屋にて「美女に化けた大蛇」の話しなど苦難もあり、また採集の喜びもあったようである。
1905年秋、46点の粘菌標本を大英博物館に寄贈した。これが、イギリス菌学会会長ア-サ-・リスタ-の目にとまり、東京帝国大学三好教授が送った標本に続き、「日本産粘菌第二報」としてイギリスの植物学雑誌『ジャ-ナル・オブ・ボタニー』第49巻に発表された、これが機会となり、リスター父娘との交流が始まった。以後、世界的な粘菌学者としてその地位をゆるぎないものとし、昭和4年の御進講に繋がっていくのである(1921年(大正10年)3月より、皇太子裕仁親王、イギリス外5ヵ国に外遊)。
田辺での生活は、熊弥が誕生したのち、夫婦不和で松枝婦人が実家に帰ったりしたこともあったが、その後は酒を飲むことも少なくなり、また、熊弥の一々のしぐさや幼児言葉を詳細に日記につけており、熊弥への深い愛情と将来への期待をこめたことがうかがい知れる。 しかし、熊楠の日常の生活のサイクルは午前11時頃起床し、午後から翌朝5時頃迄、標品整理、図記、調べ物、読書、執筆などであったため、松枝夫人は機(はた)を織りながら、お手伝いの者と、泣き虫であった熊弥の世話に大変気を遣っていたもようである。
この頃1910年(明治43)7月、多屋家の借家の前の宅で米を搗(つ)く音が耳障りになり、同じ中屋敷中丁の、藤木八平の別宅に転居し、別棟の書斎を建てた。
翌年3月、全国行脚の途中田辺に立ち寄った、俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)が来訪し、
「木蓮(もくれん)が蘇鉄(そてつ)の側に咲く所」 という句を詠んだ。
1911年(明治44)10月には長女文枝が誕生した。
隠花植物の採集や粘菌の研究に力を入れる一方で、1909年(明治42)ごろから、知人や小学校図書室などが所蔵している書物を次々と借りて筆写した。とくに法輪寺(ほうりんじ)所蔵の『大蔵経(だいぞうきょう)』の「抜き書き」は、毎日のようにつづけて3年かかり、たいへんな精力を費した。「読むというのは写すこと、単に読んだだけでは忘れるが、写したら忘れない」を信条とし、人にすすめ、自分も実行したのである。それが『田辺抜書』として61冊にのぼっている。
熊楠は、帰国後しばらくはイギリスの雑誌に論文を発表していたが、やがて日本の専門雑誌や新聞に投稿するようになった。1904(明治37)からは『ノ-ツ・アンド・クィアリ-ズ』と並行して『東洋学芸雑誌』などに精力的に寄稿するようになった。
熊楠の論文は文字通り博引旁証(はくいんぼうしょう)で、様々な文献を引用するのが特色であるが、同時に見聞による民俗資料も取り入れられている。その際、すばらしい記憶力と人びとから聞いておいたことが活用されることになる。そうした一例として次のような話がある。
今福町の風呂屋からの帰り、広畠岩吉(江川の生まれで生花の師匠)の家によく立ち寄ったが、ここには物好きな人々が集まり、世間話をするグループができていた。熊楠はここで耳にした話を時期を隔てて聞き直し、もし違いなどがあれば、それを指摘して、本当のところを確かめたりするので、「先生の前ではうかうかといい加減な話はできない」と、笑ったものだという。
熊楠は、何でもないような話でも、念を入れて聞いており、散髪屋や風呂屋などでの雑談や、山人や漁師などの話してくれたことが、論文を書く時の資料にもなったのである。
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