はじめに
和歌山県が生んだ世界的な博物学者、南方熊楠はアメリカやイギリスなどで14年におよぶ独自の遊学生活を送り、1900年(明治33)に帰国した。
以後、郷土和歌山県に住み、とくに1904年からは田辺に定住し、亡くなる1941年(昭和16)まで37年間をこの地で過ごした。
生涯、博物学や民俗学、植物学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌『ネイチャ-』や、随筆問答雑誌『ノ-ツ・アンド・クエリ-ズ』に数多くの論文を投稿し、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにもその活動に関する意見を発表し、併せて精力的に自ら保護に関する実践的な活動を行った。
偉大な在野の学者と言う評判の一方では、たいへんな奇人ともみられていた(明治44年2月1日発行、『新公論』千里眼号「当世気骨漢大番附」にも東の前頭、筆頭で掲載された)反面、「南方先生」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。
現在、当時の南方熊楠を知る人々も少なくなり、また最も身近で過ごした愛娘、長女南方文枝さんも2000年6月に熊楠のもとへ旅立った。
熊楠が残した業績とその履歴は、『南方熊楠全集』や『南方熊楠日記』など数々の資料や、研究者の手による書籍、論文により明らかにされてきたが、現在もその発掘、調査は続けられている。
今日、熊楠がさきがけて実践した、学問への前向きな姿勢や、エコロジ-などを、 広く多くの人々に少しでも理解してもらうため、翁の生涯を簡略にまとめた。