柳田国男は、熊楠のことを「我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬している」と記している。
二人の交流は、明治44年(1911)3月、柳田から熊楠に宛てた書簡に始まる。山神とオコゼに関する熊楠の論文がきっかけとなった。それまでに、柳田は『遠野物語』などを出版、民俗学の先駆けとなる研究を始めており、一方、熊楠も民俗に関するさまざまな論考を学術雑誌に発表していた。
熊楠は8歳年下の柳田に対し、大きな影響を与えるとともに、高級官僚だった柳田から多くの支援を受けている。熊楠の神社合祀反対運動に対して、柳田はさまざまに助力をした。また、柳田の創刊した『郷土研究』に、熊楠はたびたび寄稿した。
交わされた文通は、熊楠からは160通を越え、柳田からのものは74通に及ぶ。内容は、民俗学上重要なものが多く、柳田は熊楠の書簡を「南方来書」と題した冊子にまとめ、大切にしていた。
柳田が日本独自の民俗学を目指したのに対し、熊楠は世界の民俗を比較し、性文化も含めた民俗学を目指していた。考え方の違いは、次第に二人の交信を遠ざけた。
しかし、南方熊楠を「日本人の可能性の極限」と称賛した柳田は、没後の『南方熊楠全集』出版を強く奨励した。